アフリカ難民の状況
アフリカ難民の状況
-2005年6月発表-
2005年1月1日現在、世界全体のUNHCRの「援助対象者」約1920万人のうち、455万人がアフリカにいます。その主な内訳は、難民275万人、国内避難民と帰還して間もない元国内避難民123万人、帰還民33万人です。これに対し、2004年1月では、UNHCRの援助対象者は世界全体で1700万人、アフリカで428万人(うち難民は約313万人)でした。さらに、 2004年、難民として16万人以上がアフリカ諸国で新たに庇護を求めました。
アフリカ難民数:出身国別 上位10か国 (2005年1月1日現在) | ||||
スーダン難民 | 73万0612人 | エリトリア難民 | 13万1119人 | |
ブルンジ難民 | 48万5764人 | ルワンダ難民 | 6万3808人 | |
コンゴ民主共和国難民 | 46万2203人 | エチオピア難民 | 6万3105人 | |
ソマリア難民 | 38万9272人 | チャド難民 | 5万2663人 | |
リベリア難民 | 33万5467人 | シエラレオネ難民 | 4万1801人 |
コンゴ民主共和国
●概要
コンゴ民主共和国からの難民の多くは、98年と99年に起こった紛争、2000年の、政府と反政府勢力「コンゴ解放運動」(MLC)の間の衝突によって近隣諸国へ逃れた人たちです。こういった不安を払拭し、戦争や危機に対する恒久的な解決策を打ち出すため2003年に、暫定政権が設立されました。しかし、引き続き同国北部や東部では不安定な状態が続いており、難民となった人たちが他国へ流出しています。
武装解除や動員解除、再建などの遅れや絶え間ない民兵や反政府勢力からの暴力により、暫定政権の存続は危ぶまれています。高いインフレや失業率と、非常に悪い社会基盤は、人道支援や開発の仕事へも影響を与えています。
●コンゴ民主共和国でのUNHCRの活動
2004年8月、UNHCRとコンゴ民主共和国、中央アフリカ共和国は、難民の帰還に関して合意に達し、2000人のコンゴ民主共和国からの難民が中央アフリカ共和国から帰還し、さらに多くの難民の帰還が期待されました。
しかし、UNHCRのの支援は、治安の悪さから縮小を余儀なくされており、コンゴ民主共和国難民約40万6000人(うち、UNHCRは35万人以上を支援)への大規模な帰還事業は中断されました。悪化した治安のために、退避を余儀なくされた職員もおり、UNHCRの事業にも支障をきたしています。
コンゴ民主共和国難民:各国での受け入れ数 (出典:Global Refugee Trends - 2005年1月1日現在) |
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タンザニア |
15万3474人
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アンゴラ |
1万3510人
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ザンビア |
6万6248人
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フランス |
7665人
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コンゴ共和国 |
5万8834人
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ドイツ |
6668人
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ブルンジ |
4万8424人
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カナダ |
5069人
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ルワンダ |
4万5460人
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イギリス |
5973人
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難民の地位に関する条約」の対象の難民は、「人種・宗教・国籍・政治的信条などが原因で、自国の政府から迫害を受ける恐れがあるために国外に逃れた者」とされている。これは政治難民と呼ばれる。しかし難民のもともとの定義は政治に限定されているわけではない。歴史的には天災、飢餓や伝染病、国内外の紛争から逃れるために住む場所を追われた者が難民もしくは流民(displaced person)の多数を占めた。これらの災害難民は多くの場合国内の別の地域に移動するため内部難民(internal refugee)などと呼ばれる。また近年では経済的貧困を逃れるための理由での難民も経済難民(economic refugee)と呼ばれる。1997年の時点で世界の難民は約2610万人とされている。国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、2004年12月31日時点で世界の難民は923万6500人とされている。地域別ではアフリカが最大で全難民の30%が居住しており、次いでヨーロッパの25%である。難民認定を受けられないと保護が受けられない例も多く、狭義では認定を受けた者のみを難民と呼ぶ例もある。そのため法的地位として難民申請者(庇護希望者[1])、国内避難民[2](国内難民)などの呼び方がされる場合もある。
なお、亡命という語には政治的、信条的な理由により自主的に出国するという語感があるが、法的には難民と同じである。英語でも難民と同じく「refugee」と言うが、亡命の語感を生かす場合は「self exile」(自主的追放)を使う。
1951年7月28日にスイス・ジュネーヴにて行われた「難民及び無国籍者に関する国際連合全権会議」において難民の地位に関する条約(難民条約)が採択された。「難民法のマグナ・カルタ」と呼ばれる。難民の定義、難民保護のための行政措置、ノン・ルフルマンの原則(送致・送還の禁止の原則)が定められた。ただし、この条約は対象地域を欧州に限定することができ(しないこともできる)、さらに、対象となる難民も1951年1月1日前に発生したもののみに限定されていた。日本における法令番号は「昭和56年条約第21号」。
1967年1月31日に国際連合によって難民の地位に関する議定書(難民議定書)作成された。難民条約における対象地域の限定を原則解消し、対象難民の時限的限定を排除した。日本における法令番号は「昭和57年条約第1号」。
日本の対応 [編集]
1981年10月3日の難民条約加入(対象地域を欧州に限定しない旨宣言)、1982年1月1日の難民議定書加入(条約・議定書とも日本国における発効は1982年1月1日)を契機として、それまでの「出入国管理令」を題名も含めて大幅改正した「出入国管理及び難民認定法」(入管法)によって難民の認定手続等を定めている。しかし、入国管理当局の認定基準が非公開且つ厳格で、難民調査官及び法務大臣という法務省官吏のみが調査・認定権限を有し、他国、特に欧米諸国に比べ受入れ人数が少なすぎるという批判がある。
このため、2005年5月から、外部の学識経験者等(文化人、弁護士等を含む)が難民審査参与員として難民認定手続に関与する制度が導入されている。
一方で、山がちな地形が多いため人口に比して居住区域が少なく、歴史的にも他民族との積極的な関わりを殆ど持たなかった日本では、大量の難民を一気に受け入れるのは現実的に不可能との指摘もある
● ● ● ● ● ● ● [ REPORT ] ● ● ● ● ● ● ● |
イラクで、アフリカで、世界中で医療援助に携わってきた神谷さん。難民キャンプの過酷な環境のもとでも子供たちはたくましい顔を見せ、援助する―されるという関係には疑問が挿まれます。神谷さんは「援助は風で良い」といいますが、その真意とは? |
アフリカと難民援助 |
医師 神谷保彦 . |
アフリカの地道は、山あり、谷あり、泥沼と豊かな表情を持っている。車に乗っているものにはがたがたの悪路も、徒歩しかない地元の人にとっては車がとばさないから安全な道である。アフリカの地方で、道路が舗装された後、車のスピードが上がり、ニワトリやヤギがひかれるだけでなく、人の交通事故が増えた所は多い。地元の人には緊急チャーターフライトなどないから、事故の瞬間に生死が決まってしまう。第一、アスファルトの道では熱くて、裸足で歩けない。ザイールのルワンダ難民キャンプへの道も整備が始まった。
難民キャンプのあるザイールキブ地方は、次の木陰まで後何キロ歩くのかといった灼熱のアフリカからは程遠く、豊かな緑に恵まれている。キブ湖の入り江の向こうに見える跳び箱のような白いテントのキャンプ風景も圧倒的な自然の中で違和感がない。キャンプの中で、難民と呼ばれながら暮らしている人たちは、治安と援助の名のもと、全員の姿が上から眺められるような監視管理下におかれているようにみえる。難民となって1年半が過ぎても、帰還の見通しが立たず、救援型援助(与えるー受け取るという形の援助)を受けざるを得ない状況にある。そういう援助は難民の依存性を高め、自立を阻害するといわれる。しかし、彼らは、その不自由さを跳ね退ける力強さを持っているし、援助に頼りきっているわけでもない。自分でできることはやっている。 キャンプの中で、子供たちに教えてもらうことは多い。学校で習う普遍的な知識ではなく、テントの間を走る路地の歩き方、メイズを臼で粉にする方法、薪の割り方、頭に物を乗せて歩く方法など、局所的な知識を沢山知っている。男の子たちと一緒にマルボローというビー玉遊びをしていたら、お母さんが、女の子は子守をしてくれるのに、男の子もちょっとはうちの仕事の手伝いをしろ、と怒りに来る。健康教育のときには、僕がお母さんに、手を洗え、子供に食欲がなくても母乳はしっかりと与えよ、といろいろと無理な注文をつけることが多いのに、お母さんの方こそ、当たり前のことを言っている。ところで、健康教育は、予防接種の前などに、集まったお母さんに教育するのではなく、診察室や家庭訪問で、一人一人のお母さんと、問題点を一緒になって考えていくのが良い。それでも、お母さんに病気の予防について話をしても、"There is no other way"(他にどうしろというの)と言われると、どうすることもできず、病気になったら来てもらうしかないのかと、健康教育の内容を実現できる状況のなさに躓いてしまうことが多い。
キブ湖が、静かな膜を作って光っている。難民の一人は、湖水の上を歩いて、対岸のルワンダに帰れそうだと言った。その湖水の青に染まりながら、4才の女の子が、自分の体重の半分はある重さの水を背負って、山道を登っている。この水を持ち帰らないと今日一日の一家の生活が成り立たない。水汲みは、人間が昔からずっと営み続けてきた最も重要な暮らしの行為の一つである。日本でも昔は、子供たちが自分用に作ってもらった水桶を頭に載せ歩いていた。今や、日本の子供たちは、今日一日の生活ではなく、先の高収入の生活のために、重いカバンを手に塾に通っている。
ルワンダの人たちは19世紀、宗主国のドイツ、ベルギーによって、当時流行していた人類学、骨相学、優生学という科学に合わせて、北(エチオピア)から来た背の高いツチ人と背の低いフツ人などに分類された。日本人をこの人の顔は北方人、あの人の体格は南方人と分類するようなものである。また、ある地方では、牛を10頭以上持っている裕福な者をツチ人と決めたともいわれる。ルワンダにはもっと古い歴史があるのかもしれないが、起源や歴史とは、後から人がその時代に合わせ解釈し、教科書などを使って普及させるものである。独立後も、ルワンダ人自身の権力者が、この民族分類を利用し、権力争いをフツ人とツチ人の民族闘争にすり替え、民族を強調することによって、地域差や貧富の差を隠蔽した。
大きくなったら何になりたいと聞いたら、難民キャンプの女の子は「シスター(看護婦)」、男の子は「兵隊」と言った。彼女が看護婦さんになって医療援助を受ける必要がなくなる日が、彼が兵隊にならなくても他の仕事に就けるような平和な日が早く来ることを願わずにはいられない。5才の女の子は、「わたしはひこうきになりたい」と屈託のない笑顔で叫んだ。子供は人だけでなく、何にでもなれる。彼女はルワンダに飛行機で自由に帰れることを願っているのか。彼女には、自分の宿命や無力さを自分自身の想像力で乗り越えようとする朗らかで強い精神力がある。そんな彼女を前にして、 |